8.15WEB多事争論

筑紫哲也手紙1 筑紫哲也手紙2 筑紫哲也手紙3

8・15と私

1945年8月15日。

物心付いて、その日を通り過ぎた者ならだれでも、この日について何らかの感慨を抱かないわけにはいかないと思います。

ただ、そのなかみは年とともに変わったもの、いくら歳月を経ても変わらぬものがあるのではないか。

あの日、10歳の典型的軍国少年、今は己れの来し方を振り返ることが多い年齢に達している私の場合はどうか。

変わらないのは・・・あの戦争が二度と繰り返してはならない「国家的失敗」「国家的愚行」だという点。

失われた、おびただしい人命だけでなく、それまで日本近代が築いてきたものを、元も子もなく失った。私たちの国の長い歴史のなかでも、これほど破滅的な出来事は他にない、変わったのは、その歴史についての見方です。

私たちは長い、古い歴史を持っていると思い勝ちです。それはその通りなのですが、近代ということに限ってみると、意外に短いのです。明治維新から今年でちょうど140年。

「8・15」は、この140年のほぼまんなかに位置しています(明治維新から77年目ですから、敗戦までが少し長いのですが)。

さて、この敗戦までの間を二つに分け、前半の約40年で獲得したものを後半で全て失って行った過程だと言う歴史家もいます。

もし歴史が繰り返すのだとしたら・・・いささかぞっとします。

1945年から前半の40年、つまり1985年ごろまでに獲得したものを、その後はバブル崩壊さながらに失って行く、そういう過程に私たちは入っているということになります。

歴史のおもしろさと恐ろしさが、そこに在ります。同じことを繰り返さないように努力することができるのも私たちだし、そのために歴史からどんな教訓を汲み取るかも私たち次第なのです。